境内のご案内
境内のご案内
-
本殿(ほんでん)
一間社流造。唐破風付、銅板葺となっています。昭和20年8月6日の原子爆弾により、当時桧皮葺であった華麗な社殿は焼失しましたが、ご神体は境内に駐在していた陸軍第二総軍通信隊の消火活動により焼失を免れ、無事であったことは、奇跡と言うほかありません。現在の建物は、昭和59年に再建されたものです。
-
拝殿(はいでん)
本殿同様、昭和20年8月6日の原子爆弾により焼失したため、現存の建物は昭和40年4月、350年の式年大祭を記念して再建されたものです。
-
御産稲荷社(おさんいなりしゃ)
御祭神の徳川家康公は、寅年の天文11年(1542年)の寅の日、寅の刻に三河の国(愛知県)岡崎城でお生まれになりました。母、於大(おだい)の方は、家康公を身ごもられた時、無事に生まれて立派な武将になれますようにと、薬師如来へ祈願されたそうです。そのことから、東照宮にお参りすると、安産のご利益があると言われるようになりました。
当宮の御産稲荷社は「お産さん」とも呼ばれ、安産を祈って多くの絵馬と幟が奉納されています。 -
福禄寿(ふくろくじゅ)
福禄寿は、円満な人格、誰からも信頼され、尊敬される徳を与えて下さいます。長い頭は冷静に慎重に物事を考えて行動することを表しており、福は幸福、禄は高禄、寿は長寿、この三徳を兼ね備えた神様です。
-
御供所(ごくうしょ)
入母屋造。神に供える神饌をととのえる厨房として使われていました。内部は四室に区切られ、東北の間には一間四方の上段の間(調理した供物の仮置きの間)があります。独立した建物としての御供所が現存している例は、全国の東照宮でも多くありませんが、そのなかでも最古のものとして貴重なものです。原爆50周年記念事業として、広島市の補助により、また、東照宮創建350周年記念として平成9年4月に解体修理しました。
-
脇門(わきもん)
切妻造。御供所に接して建っています。豪壮で簡素な感じは戦国時代の遺風です。祭礼時には、藩主が通行する格式高い門でした。御供所同様平成9年に解体修理しました。
-
本地堂(ほんじどう)
江戸初期、慶安元年の造営。宝形造。当初、徳川家康公の本地仏である薬師如来が祀られていましたが、明治以降は、神輿舎に転用しました。今では数少ない神仏混合時代の遺構で、貴重なものとされています。「総朱漆塗」「四方の中備(なかぞえ)に極彩色の蛙股」「屋根の四隅の鬼瓦」「頂の宝珠」などが特徴です。昭和59年3月修理漆塗装し、当時の姿に復元しました。
-
大神輿(おおみこし)
大神輿は、東照宮が創建された慶安頃(1648~51年)の製作。檜材に黒漆および金梨地塗りの華麗なものです。神輿は、重さ二百貫(約800kg)で、50人で担ぐとされています。幸いにも原爆での焼失を逃れ、現在神輿蔵に納められています。
平成27年10月10日の「通り御祭礼」では17年ぶりに町へ繰り出しました。 -
手水舎(てみずしゃ)
切妻造。江戸時代初、慶安元年時の広島藩主浅野光晟公により造営されました。「総朱漆塗」「蛙股の月と兎」など桃山時代の建築様式をよく伝えています。建物の中央に据えられた手水鉢には「御宝前、東照宮、慶安元年卯月十七日」という文字が刻まれています。昭和54年12月、解体修理漆塗装し、当時の姿に復元しました。
-
唐門(からもん)
日光東照宮での陽明門に相当します。中央には「長尾山」という額が掲げてあります。門の形式は、一間一戸向唐門で、主として唐様の様式となっています。門の左右には翼廊が取り付けられています。昭和20年8月6日の原子爆弾の爆風により、全体が北東に少し傾いていましたが、平成20年度から23年度まで4ヶ年かけて保存修理工事を行い、ほぼ創建当初の華麗な姿に復原されました。
-
翼廊(よくろう)
唐門の左右に十間ずつ建てられている切妻造です。唐門とは対照的に和様を主体とした簡素な構えであります。戦後、屋根が桟瓦葺となっていましたが、平成20年度から23年度まで4ヶ年かけて保存修理工事を行い、本瓦葺となり、ほぼ創建当初の華麗な姿に復原されました。
-
御神井(ごしんせい)
東照宮山の東脇を俗に風呂の谷山といい、常に水が湧き、干ばつにも絶えなかったと古書にあります。
これは、大阪の「亀の井」によく似ていることから、人々は「亀井の水」と呼びました。 -
赤松(あかまつ)
昭和20年8月6日の原子爆弾で当宮本殿拝殿瑞垣は全焼しました。当時「広島には70年間草木は生えない」と報道されましたが、翌春には本殿焼け跡の灰の中から数本の赤松が自然発芽しました。時の宮司が奇異に思って2本を移植(1本は瑞垣内)して育成しました。→平成23年夏、本殿西側の松は枯れたことにより伐採。
-
楓樹(ふうのき)
東照宮創建350年記念樹として平成11年4月29日に植樹されました。
徳川8代将軍吉宗公ゆかりの秘木で、皇居吹上御所の庭園に生存、その種子を昭和天皇が日光東照宮に下賜、育成し成木となり、当宮に2本おくられました。 -
ふくろう
~森を大切に フクロウはみています~
梟や青葉ずくは『吉祥の鳥』、古くは古事記に記されています。東照宮の森(約1万坪)には昔からこれらフクロウ科の鳥が棲息します。二葉山は豊かな伏流水で森がよく繁り、餌となる小動物も沢山いるからでしょう。このセンダンの木のほら穴には毎年、梟や青葉ずくが産卵し、2羽位の雛を育て、多くの若鳥が巣立ちました。
しかし、平成18年の春、突然木が枯れて伐採、『梟の巣穴』として保存しました。 -
石鳥居(いしどりい)
慶安元年、三次藩主浅野長治(広島藩2代藩主光晟の伯父)により寄贈された鳥居です。
-
原爆慰霊碑(げんばくいれいひ)
「昭和二十年八月六日の原爆により罹災者境内に溢れ救護所設けらる。偶境内に湧井在り。この清水を飲みて幽明異にする者多し。寔に哀愍の情に堪えず。茲に慰霊碑を改建して永く哀史を傳えんとす。昭和四十一年八月五日 東照宮宮司 久保田幸重誌」
-
原爆65周年追憶碑(げんばく65しゅうねんついおくひ)
原爆文学家の原民喜は、原爆投下の翌日を広島東照宮で過ごしました。原民喜が文学に残した思いを後世に伝えるため、平成22年8月6日、追憶碑を建立しました。
「コハ今後生キノビテコノ有様ヲ ツタヘヨト天ノ命ナランカ 原 民喜
平成22年8月6日 広島市長 秋葉忠利書」 -
金光稲荷神社(きんこういなりじんじゃ)
今から約250年前、元禄の頃よりこの二葉山山頂に祀られた、東照宮の境内社です。
その遠き昔より、商売繁盛家内安全等、諸願成就の神様として神威赫々たるにより金光稲荷大神と稱えられてきました。
山頂の奥宮までの階段約500段、朱塗鳥居120数基、毎月1日・15日には、広島一円から多数の参詣者があります。 -
奥宮(おくみや)
金光稲荷神社の奥宮です。
広島駅や市街地、瀬戸内海の島々が一望できます。 -
二葉山(ふたばやま)
二葉山は、日本最大規模のシリブカガシの群生林と言われています。シリブカガシとはどんぐりの木の一種です。シリブカガシは暖かい地に育つ木で、主に近畿以西、四国、九州に分布し、群生林となることは大変珍しいとされています。江戸時代に、お茶をたてる為に、シリブカガシの木炭が良いということで、殿様がシリブカガシを保護し、このような群生林になったと言われています。
どんぐり拾いは、11月中旬が最適です。
近隣の小学生も授業の一環として、たくさん訪れています。